筑紫舞聞書(五)

 菊邑検校は、山本光子に舞を教えると同時にその舞にまつわる伝承を語った。また筑紫斉太郎や各地から来たくぐつ達も、舞とその舞のもつ意味、そして彼等の信仰する神々の話を語った。好奇心の塊のような少女だった光子は、そんな話を、「学校で習う話とはだいぶ違うな。」と思いながらおとぎ話を聞くように聞いていた。何しろ当時、光子達が小学校で習う神話といえば、
「それ、この日の本の国は、これわが子孫の王たるべき地なり。汝天孫きて治めよ。」
というような世界であったから、検校やくぐつ達の語る神々の話を、光子は、全く別世界のおとぎ話として受けとめていたのである。
 さて以下は、こうした話を山本光子こと西山村光寿斉氏が折にふれ思い出したことの聞き書きの一部である。

 「出雲御遠慮」のこと

 九州から来た女のくぐつ達をというが、ある時比丘尼組についてきた宰領さん(くぐつ達を取締まる人)がいた。この人は、出雲から来たが、わかめを持ってきた。そのわかめは、根の所を奉書で巻いて麻緒で結んであった。まず検校にそのわかめを見せて、
「これでよろしいですか。」
と聞いていた。検校がさわってみて、
「よか、よか、」
と言ったので、光子にくれた。
「御神事のわかめです。私達は御奉仕しておりますので、いただけるんです。天皇陛下様も召しあがるわかめなんですよ。」
といってうやうやしくさし出した。
 翌朝、店で、そのわかめを、みそ汁の具にして、皆につぎわけた。店の誰かが先に飲もうとすると、その人が、
「すみません、とうさんがまずいただいて下さい。」
という。十三が、
「わしが先でもあきまへんか。」
と言うと、その人は、
「はい。まず、とうさんに。」
と言った。十三は、
「えらいの高いわかめやな。」
とあきれていた。
 この人は、「磯の春」という舞を教えてくれた。これはいわゆる神事の舞である。
 この人は、わかめの神事のことを次のように話した。
「その昔は、から神事でとったわかめを毎年みつぎものとして出雲に献上していた。しかし、後には、わかめは出雲にもあるので、出雲のものを神にさしあげるようになった。すめらぎに献上するように言われたが、『すめらぎの食するは出雲にあらじ』ということで、最初は見識をもって断り、出雲のわかめは、出雲の神だけにさしあげた。その後、九州に近い所の住吉の神に仕える者が来て、私達も、この神事を伝えて、すめらぎに献上しますと言って伝えた。」
 また、次のような歌も教えてくれた。
「めかり
 めかくし
 夜中の神事
 神のめぐみは
 …………(不詳)
 召しませ
 けませ」
 そして、更に、
「真夜中に海に月がちらちらする、それが『らす』です。誰もいない所でしなければ、『あまてらす』ではありません。」
とも言った。いわゆる「和布刈神事」に関する一連の伝承と考えられる。
 出雲から来たくぐつは、彼等の持つ神話を多く語っている。
「大国主神は、日本の国の王です。その昔、出雲の神にすべてをまかそうということになって、絶対にあなたにさからいませんというあかしに近くの神々が武器をさし出したということです。
 出雲の神は、争いを好まないおだやかな神です。栄えの神(註)です。その後、出雲の神に、王の権利をかえせといって来た神がいましたが、そのときも出雲の神は、『いいですよ』と言って、自分を主張なさらなかった。ただ嘆かれた。家出をしようとされたこともあったようです。」
 こんな話だった。その頃、大阪の地唄舞の山村あい女が、山村の北・南のお家騒動で家を出て、光子の家に居たこともあって、光子は、それに引きつけて考え、「出雲の神さん、かわいそうやなあ。」と思ったという。
 菊邑検校は、出雲系の舞は「出雲御遠慮」といって、くぐつ達が出雲で舞って稼いではいけないと言った。
「筑紫は、出雲から、いろいろなことを教えてもらいました。稲作のわざ、すなどりのわざ、の見分け、芸能、生きてゆくすべてを教えてもらったのです。だから『出雲御遠慮』で、出雲で稼いではいけないのです。これは『越御遠慮』といって越物の舞も同じです。」
と言った。出雲から来た人も、
「ある時、筑紫が、大和に呼ばれて舞うという時、困っていたら、出雲が舞を教えてくれた。『おおなむち』の神さんのものを教えてもらった。この神を前に出せば、誰も文句を言わない。この神さんの弟さんが来て舞を教えたということだった。しかし、『出雲御遠慮』の舞は、おもしろくて受けが良いだけに、これで稼げないのはつらい。」
というようなことを言っていた。
 また、この人は、自分はもとは筑紫の出だと言った。その人の曾祖父が宮大工で、出雲大社の造営の時、出雲に来て住みついた。
「出雲に来て調べているうちに、出雲が本当に王城の地ということがわかりました。治まってはじめて国といえるんです。出雲は治まったはじめの国、筑紫の人には悪いけれど、私は、国のみなもとは出雲だと思います。」
と語った。
 光子は、「出雲、出雲」と出雲の神の賛美が続くが、学校では、伊勢の天照皇太神宮が至高至貴と習っていたので、
「そやけど、お伊勢さんが一番えらいんやろ?」
と検校に聞いてみた。すると検校は、
「まあ、南の海の守りですけれど…。筑紫舞としては、出雲に御遠慮です。出雲の神はおだやかな神、何でも聞いて下さるが、それに甘えてお商売をしてはいけないということです。また、『出雲御遠慮・伊勢勝手』とも言って、お伊勢さんのものを、伊勢で舞ってもよいが、しかし、やはり、もうけてはいけないのです。お茶の一杯も飲んではいけないのです。」
と言った。
「」という舞がある。くぐつ舞で、箏曲の「」に合わせて舞う。国生み神話や、大蛇退治の神話が内包され、宰領自身が須佐之男命や大国主神そのものになる。くぐつ舞とはいえ、軽妙な所作の中にも神具現の荘厳さが加味され、古事記に記す「神話」とはかかるものであったかと感ぜられる。

(註)栄えの神
 菊邑検校は、栄えの神について次のように語った。
「栄えの神は永続的な神。この神に守られると徐々に栄えてゆく。善根を施す人には、栄えの神がつく。これに対して福の神という神は、一時的、突発的に幸せをもたらす神である。たとえば、富くじに当たる時のような場合。だから、福の神がつくと泣く人がいるが、栄えの神がつくと泣く人はいない。」

 ・のこと

 出雲系の舞を習う時、検校と出雲から来たくぐつが教えてくれたことである。
「巫王・命婦の舞は、神を決める舞、託宣を聞く舞で、出雲の神を日本の神々の統領にしようと決めたのは、この舞によってである。
 この舞を伝える者は、血筋があって代々選ばれる。因幡のしろうさぎは、巫王の近い子孫。
 巫王は六十、命婦は四十になったら、次に渡して引退し、普通のくぐつになる。
 現在巫王はいる。大事に大事にして皆が食べさせている。命婦は死んでいない。」というような話で、命婦の舞を光子に伝えた。
 さらに、
「巫王・命婦の舞が出るのは、非常に大事なことを決める時、日本の国のため、国を守るためにしか舞ってはならない。巫王、命婦がそれぞれに舞う。巫王、命婦が舞って、ぴたりと合えば、託宣は吉、二人の舞がうまく合わなければ、二人は殺されることもあった。」
と言った。光子が、
「こわいわあ。」
というと、その人は、
「何でこわいんです。私達の舞が国の大事を決めるんです。晴れがましいことではありませんか。」
と言った。光子は、学校で道鏡のことを習った時だったので、
「そんなら、なんで和気清麻呂が遠い宇佐なんかに行ったん?そんなことせんでも、巫王・命婦の舞で決めたらいいのに。」
というと、その人は、
「巫王・命婦の舞で舞って、凶と出たので宇佐まで行ったんです。宇佐は道鏡のことは「良いでしょう」と言ったのですが、清麻呂は、巫王・命婦の舞で自信を得ていたので、宇佐の託宣と称して道鏡を廃したのです。道鏡は、宇佐に金を渡して言い含めていたのですが、反対の託宣が出たので激怒したということです。その後、この舞を政治に利用する者が出てきて、神を利用してはいけないということで舞われなくなりました。」
とも言った。その人は、長屋王の話もした。
「長屋王のまわりの者が、その時の巫王・命婦に、神の託宣を聞きたいので舞ってほしいと呼んだ。二人は舞を断れば殺されるだろうし、また、凶と出たら殺される。神の怒りで殺されるかもしれない。いづれにせよ殺されるのなら、舞うのを断って殺されたほうがよいと思って、断った。そのように記録に残してほしいと言った。
 しかし、長屋王は、そんなことはさせないと二人に約束して舞わせた。結果は凶と出たが、二人は沢山の褒美をもらって帰った。その後長屋王はひきこもってしまったということです。」
 出雲のくぐつは、最後に、
「私達の舞は命をかけて舞う。それ程の見識を持っているということです。こんなことは、私達があの世に持っていかなければならないことでしょうねえ。でも、こういうことだということは覚えておいて下さい。」
と言ったという。

 ウガヤのこと

 平成三年の三月のある日、私は、光寿斉氏宅で、稽古風景を見ていた。その時稽古していたのは「残月」という三絃ものであったが、不思議な舞であった。舞人は、面当てをして冠・白衣。足もとにひかえる二人がバンブーダンスのように二本の棒を動かすと、舞人はそれを踏まないようにぴょんぴょんと飛んで出る。
 この舞は、が代わる時、住吉の大神が聖代を寿いであらわれるという舞で、途中から(手事の部分)龍頭をつけて舞う。
 そんな話を聞いて、稽古は途中であったが、私は神戸に帰った。
 その後、光寿斉氏から電話があり、
「夢に検校があらわれて、『ウガヤはどうした、ウガヤです。ウガヤがあなたの中で燃えつきますよ。』と言うのを何度も聞くのだが、ウガヤとは何だろうか」と問われた。
「ウガヤフキアエズという神様はおられますがねえ…」
と私も答えたが、光寿斉氏は、フキアエズということは聞いていないと言われる。
 その直後、たまたま、テレビを見ていると、ニュースで、今度、大阪の大槻流で、能「」を復元したと報道があって、後ジテの豊玉姫が龍頭を冠って舞っている所が映っていた。
『ウガヤ‐ウノハ‐龍頭…ひょっとしたら…』と思い、大槻さんに電話したところ、大阪、福岡、名古屋で公演をするということだった。一番近い大阪公演は所用で行かれず、光寿斉氏に連絡して、福岡へ行き、一緒に見た。
 その前日、光寿斉氏宅で、「残月」の稽古の続きを見た。舞が進むうちに、干満二珠をすくい取る所作があった。
 私は『間違いない』と思い、稽古のあと、
「これがウガヤではないんですか?」
と聞いた。光寿斉氏は一瞬何のことかというような顔をされたが、次にはっとして、
「そうや!私、夢で検校さんに『ウガヤはどうした』と責められた時、『あれ、まだ途中なんです』言うたわ!これがそうや!」
と言われた。
 この時、光寿斉氏は、六十年前の、この舞を伝承した時の情景を思い出して語った。
 この舞は「残月」という曲に当てはめているが、筑紫舞では、「の舞」また「り祓えの神事」とも言う。習った時は、三絃ではなく、龍笛、のような鼓、笙、鉦、石笛などを使った。
 この舞を教えた人は、東の方から来た。光寿斉氏の記憶では、近江野洲の人ではなかったかという。笛は紀州新宮から、石笛は九州から来た人と記憶している。
 呼ばれて来た人が検校に挨拶し、
「この年頃の娘さんには無理でしょう。」
と言った。舞が重すぎて、若い娘には理解するのは無理だというようなことらしい。しかし検校は、
「わかっているが、時間がない。この人ならそのうち理解できる。この人の体に残しておきたい。」
と言ったという。教えに来た人も、召集が来るかもしれないというので急いでいたようだった。
 その人は、明治節(十一月三日)の二日前に来て、二日間で教えた。その人は、舞を允許して帰ったが、その後、検校は、「残月」に合わせ、光子はこれを半年位、毎日舞わされた。その頃は、戦争が激しくなって、九州へ帰る切符がとれず、検校もケイも、一年のほとんどを神戸で暮らし、光子は、普通の筑紫舞を一日に十曲位教え込まれていた。
「鵜合転生龍頭の舞」は、日継皇子がかわる時、また、先帝を偲ぶ時に舞う。この舞によって熱き心が先帝に通じるが、しかしいつまでも偲んでいてはいけない。先帝の魂を、日継皇子に転生させなければならない、というような意味をもつ。
 構成は、
・月の都に行かれた先帝を偲ぶ。
・(海士)が、玉を住吉大神からかえしてもらうため、剣を持って海に入る。
・剣が、鞘からするりと抜けて玉に入り剣珠となる。その玉がだんだんと大きくなる。大臣はうろたえる。
・よこしまな心を持って玉は取れない。ただただ祈れと教えられる。
・大臣は祈る。祈りが通じて、龍神が海より上り、干珠、満珠を授ける。
・大臣は龍神に転生する。龍神は海の渦の中へ消えて行く。
・干満二珠を授かった大臣は、晴れやかに寿ぎの舞を舞う。
というようなものである。
 教えに来た人は、十一月三日、光子を、
「允許の前に、見とどけておいてほしい。」
ということで、神戸の六甲山のの上の辺りの洞窟に連れて行った。番頭と養子に来ていた兄が同行した。そこには小さなお堂があり、行場になっていた。その人は、着物を脱いで頭から巻頭衣のような白い衣をかぶり瀧にうたれた。大声で何か言っていたが聞きとれなかった。瀧から上がると、そのまま、光子に向かって二拝二拍手して、瀧に向かって拝礼した。
 その後、瀧の水を右手、左手とすくい、ずーっと上に両手を捧げ、指をちょっと動かした。すると、水がぴゅっぴゅっとはねあがった。その人は満足そうに、
「うん、うまくいった、これで允許できる。」
と言ったという。
 これを伝えておかねばという一念でその人も神戸に来たに違いない。遠い所から来た人ほど、自分の舞を光子が取ってくれることを感謝し、誇りを持って教え去って行った。その人達の多くは、戦争で亡くなったものと考えられる。
 六十年たった今となっては、その人達の消息を探すてだてもないが、検校とくぐつ達の伝えた舞と伝承は、彼等が唯一人の後継者と選んだ西山村光寿斉氏のなかに生き続けている。
 ウガヤは現在、神戸神事芸能研究会のメンバーが伝承に取り組んでいる。完了すれば、いずれ住吉大神を祀る神社に奉納したいと念願している。