筑紫舞聞書(十一)

<「花園」のこと>

昭和十五、六年頃のある日、海帆さんという女性が御主人と二人、西の方から神戸の山十に来た。これから二人でお伊勢参りに行くのだと言っていた。
 海帆という名は芸名である。年は三十五、六才だった。海帆さんは身体障害者で、足が悪かった。しかし不自由な体を逆に上手く使って独特の舞いぶりを持っていた。
 なかでも、“岩おとし”という芸が抜群にうまかった。“岩おとし”というのは、間かくが決まっていない飛び方である。ちなみに間かくが決まっていて∕∖∕∖∕∖∕∖と飛ぶのを“さやがた飛び”という。
 ちょうど、来あわせていたくぐつの一人が、
「岩おとし、ミホちゃん、お見せしちゃらんね」
と言うと、海帆さんは、素直に
「はい」
と言って、光子に飛んで見せた。
 負けん気の強い光子は、内心、びっくりしながらも、
「なーに、うちにかてできるわ」
と思って、あとでやってみたが、絶対にできなかった。
 海帆さんは、御主人からも、またくぐつの人達からもとてもかわいがられていた。くぐつの人達は、
「この子がいるから一族が栄える。この子は“栄えの神”です」
と言っていた。
 菊邑検校は、“栄えの神”について、つぎのように光子に語った。
  “栄えの神”は、永続的な神、この神に守られると徐々に栄えてゆく。善根を施す人には“栄えの神”がつく。
  これに対して“福の神”という神は、一時的、突発的に幸せをもたらす神である。たとえば、宝くじに当たる時のような場合。だから、“福の神”がつくと泣く人がいるが、“栄えの神”がつくと泣く人がいない。
  “栄えの神”がついている人は“福の神”が見のがさない。
 さて、海帆さんとその御主人は、その頃山口県の宇部市栄通(あるいは栄町)に住んでいた(御主人の名前を光寿斉は思い出していない)。御主人は、宇部セメントに勤めていた。もともとは九州にいたが、徴用で、徳山の光工場に行かされ、九州を出た。海帆さんも一緒に行き、その後、宇部に住んだという。
 光子が、
「なんで宇部なんかいう知らん土地に行ったん」
と聞くと、
「いえいえ、宇部に行けば花園(かえん)がありますから、安心です」
と言った。また、
「箱根を越えれば、花園(かえん)の神様もおられますし」
というようなことも話していた。
 昭和二十一年頃、宇部の海帆さんから、神戸へ
「元気にしております」
という内容の葉書が来た。また、同じ頃、富山の薬売りが来て、「海帆さんは元気です」
と話した。

 海帆さんの話に出る宇部の「花園(かえん)」また、箱根を越えた向こうにある「花園(かえん)の神様」については、東の方から来たくぐつの話を書かねばならない。その人の名は何と、私の姓と同じ「鈴鹿さん」。この「鈴鹿さん」のことを、光寿斉が思い出したのは、平成二年七月十六日である。七月十四日、恒例の年一回の「筑紫舞の会」の翌々日、光寿斉宅で、例によって、よもやま話をしている時であった。話が、神戸へ教えに来た人達に及んだ時、光寿斉が急に、
「そーや、思い出したわ!鈴鹿さんいう人がおったわ!」
と言ったのである。私は、一瞬ポカンとして彼女を見た。
 しばらくして、私の心に憤然たるものがこみあげて来て、
「でも、どうして十何年もつきあっている私の名前と同じ人が、今ごろ出てくるのよ。あんまりじゃありませんか」
と言うと、光寿斉いわく、
「そやかてあんたは、鈴鹿さん、あの人は鈴香さんやと思ったんやもん。そういえば、あんたにはじめて会うて、「スズカです」といわれた時、何かどこぞで聞いたことのある懐かしい響やなぁとは思った」
と言った。

 東のものを教えるために来た人で「鈴鹿さん」という人がいた。本名は「鈴鹿乃丈(たいじょう)」、芸名は「乃請(たいじょう)」である。くぐつの人達は、“タイさん”とか“あづまさん”とか言っていた。鈴鹿さんは「雲井の曲」の秘曲(ひぶせり)とか、“とばもの”“しまもの”(筑紫斉太郎が、鳥羽、志摩と漢字で書かず、できればかなで書いたほうがよいと言った)を教えてくれた。
 鈴鹿さんは、品の良いきれいな人で、絵がうまかった。ふりなどは絵を描いて教えてくれた。菱川派の高弟だが、絵は表芸ではないので菱川は名のれないと言っていた。
 その「鈴鹿」の一族は、もともとは、中国筋(宇部)の花園(かえん)の出だが、何代か前からは、代々、鈴鹿峠にいると言っていた。
 鈴鹿さんのひいじいさんが(安政の頃)、宇部の花園(かえん)が絶えそうになったので、鈴鹿峠から宇部に行った。その後、鈴鹿峠の大事なお宮の宮守がいなくなって絶えそうになったので、どうしても帰らなければなくなり、宇部の花園(かえん)は絶えてしまったという。
 鈴鹿の一族の中には、京都に行った者もいた。鎧師や刀工になった人もいたが、おおかた転職した人は神主になった。
 関東にいるくぐつ達を“武蔵野衆”とか“えびす組”とかいう。この人達が、集まって相談する所として東京の内藤仮宿に「花園社(かえんしゃ)」を建てた。その神社も、内藤仮宿が新宿になり、昭和の御代になって自分たちの神社ではなくなった。と鈴鹿さんが話した。

 鈴鹿さんは東のものを教えに来たが、関東から来たのか、あるいは鈴鹿峠から来たのかわからない。“とば(鳥羽)もの”“しま(志摩)もの”を教えたというところから考えると、伊勢の鈴鹿から来たとも考えられる。
 山十の女中さんで、鈴鹿さんにほれてしまった人が、鈴鹿さんが帰る時、ついて行ってしまったが、二、三日後、しょんぼりして帰って来た。店の者が、
「あんた、どこ行っとったん?」
と聞くとその人は、鈴鹿さんと同じ汽車に乗ったが、名古屋辺りで姿が見えなくなったと言っていたという。あるいは、名古屋で、伊勢の方へ行く汽車に乗りかえたのかも知れないと私は思う。

 「花園(かえん)」とは、くぐつ達の根拠地であると鈴鹿さんが語った。昔は、各地に「花園(かえん)」があって、くぐつ達を取りしきっていたという。
 くぐつ達のネットワークは、菊邑検校によれば、西の筑紫は、肥前、肥後、筑前、筑後、豊前、豊後辺りから、東は、福島の勿来の関辺りまでということである。
 この話から、さっそく調査をはじめられた追手門女子大学の中小路駿逸先生の御教示によれば、福島県の勿来の関の近くに、中世まで遡れる「花園(はなぞの)」がある。
 私が、分県地図でざっと見ただけでも、山口県宇部市以外に、熊本県宇土市、福島県福島市、和歌山県伊都郡、京都府京都市、埼玉県大里郡、茨城県北茨城市にそれぞれ、「花園(はなぞの)」がある。
 くぐつ達は、この「花園(はなぞの)」を「花園(かえん)」と呼びならわしていたものと考えられる。
 そして、この宇部市の「花園(はなぞの)」こそ、わが鈴鹿家の本貫地なのである。話があまりできすぎていてそらおそろしい気持ちがするが、鈴鹿家は、江戸時代、代々金右衛門(あるいは欽右衛門)を名のり、花園村の庄屋であった。明治に入り、私の祖々父母、鈴鹿蔵之丞・ウタの時代まで確実にこの「花園(はなぞの)」に住んでおり、私の祖母やその兄弟姉妹達もここで生まれた。その頃は既に衰えかけていた鈴鹿家も蔵之丞の世話好きと芸道楽によって遂に没落し、その子供達は皆花園を出た。しかし、一族の墓地は、今も花園にある。私の両親(鈴鹿明・キヌエ)は、現在、花園に近い宇部市草江に住んでいる。その父が、小さい頃、母(私の祖母・鈴鹿しげ乃)より聞いたところによれば、花園の家には、よく旅の人が来ていて、家の者が世話をしていたという。
 私も、くぐつに関る者であったかも知れないという発見は、大きな感動であった。と同時にこの芸能を何としても絶えさせてはならないという使命感が日一日と強くなってくるのも、私に流れる祖先達の魂のなせる術かも知れない。  (平成三年)

 われらが、住処は華の園、生まれは刀利天 父をはく はん国の王や金包太子なり われらが住処は華の上(「梁塵秘抄」巻二)

 「釈迦牟尼仏の小冠者ぞや、生まれしところは刀利天、育つ所は花の園」(謡曲「翁』)