筑紫舞聞書(一)

 筑紫舞とは、昭和初期には、たしかに存在した芸能集団「くぐつ」によって伝えられた神事芸能である。 筑紫舞とはいうが、この芸の伝承者たちは、筑紫(九州の北半分)を本拠地とし、 山陽、山陰、近畿、伊勢、熊野、尾張、北陸、そして東は関東地方に及ぶ一大ネットワークを形成していたものと考えられる。 そして、その集団の長であった菊邑検校という盲目の天才的箏曲家から、昭和の初期に神戸の造り酒屋の一人娘に生まれた 山本光子(現在の西村山光寿斉)という一人の少女に二百数十曲に及ぶ筑紫舞が伝承された。

 光子の父山本は、阿波徳島の出で、一代で造り酒屋を興した。店は、神戸市兵庫の下沢通七丁目にあり、 後に神戸市長田の海運町三丁目に移転した。工場は、西宮市の鳴尾にあった。店の屋号は「山十」である。

 菊邑検校がはじめて九州より神戸に来たのは、昭和6年(光子は小学校5年生)であるが、 菊邑検校と山本光子との出会いのきっかけを作ったのは、当時、兵庫の材木町に明治座という小屋を持っていた 関西歌舞伎の役者嵐璃書珏(あらしりかく-屋号・豊島屋)であった。

 十三は、この璃珏を贔屓にしていた。ある時璃珏は十三に、「今度の出しものに、『筑紫風流-つくしぶり』というものをとり入れたいが、 それについては九州にこの芸を持っている菊邑検校という人がいて、この人を呼んで習いたい。」 というようなことを言った。 十三は、璃珏のたのみに応じて、光子の地唄舞の師匠であった山村ひさ女に旅費を持たせ、検校を探しに九州に行かせた。

 菊邑検校は、ケイという人物(口が不自由であった。男性か女性かわからない)を伴って神戸に来た。 二人は、山十に二ヶ月程逗留し、璃珏に舞を教えた。璃珏は芝居がはねてから山十に来て、光子が父から作ってもらっていた山十の家の舞台で稽古をした。 そして光子は、いつも璃珏の稽古風景を側で坐って見ていた。

 当時、光子は、おんねりとした地唄舞にいや気がさしていた頃だった。 そこへ、跳躍や旋回の多い筑紫舞を見て、「おもしろい!やってみたい」と思ったという。

 ところが、稽古中の璃珏はなかなか筑紫風流の間がとれない。光子は側で見ていて、先に覚えてしまい、逆に璃斑に教えた。 「そうするんやない、オッチャン、ト、ト、トン、フン、フン、と待ってトンと踏むんやんか。」 「そうか。その、すまんけどな、とうはん、あんた覚えてな、ほいであとでオッチャンに教えてえな。」 「ふんふん。ええよ。」 こんな光景が続いた。

 嵐璃珏の稽古が終った時、菊邑検校は山本十三に長い逗留の礼を述べた後に、 「実は、お願いがございます。お宅のお嬢さんに、私の大事な大事な舞をとっていただきとうございますが。」 と申し入れた。
 光子は側で聞いていた。十三は、「検校はんが、あない言うてはるけど、お前どうする?しかし、陽気浮気で言うたらあかんで。 遠い所から来てくれはるんやさかいに、検校はんが、もうよろしいと言われるまで、お前からやめる言うことはできへんのやで。」と言った。
 光子はあと先も考えず、飛びつくように、「する!」と答えた。これが、山本光子という一人の少女と筑紫舞との運命的な出会いであった。

 しかし、この運命的な出会いは嵐璃珏によって仕組まれたものであった。それは、後になって西山村光寿斉氏が思い出した次のような一条によって証明された。
 光子は、昭和三年、数え八歳の時、昭和天皇御大典に、神戸の酒類組合が催した祝賀会ではじめて筑紫舞を舞った。 その時、作ってもらった狩衣の裏に、母(しな)が「光子八才」と布に書いて縫いつけていた。その時舞ったのは、「皇道の賀」(箏曲では「都の春」)という舞であった。 光子が八歳の昭和三年は、菊邑検校がはじめて神戸に来た昭和六年の三年前である。ではこの筑紫舞を誰に習ったかといえば、それが他でもない嵐璃珏だったのである。

 璃珏は、光子に歌舞伎舞踊も教えたが、自分の持つ筑紫舞を試みに教えてみて、「この子ならできる」とひそかに白羽の矢を立て、 自分が習うようによそおって、検校に光子を引き合わせたものと考えられる。だからこそ、璃珏は、稽古に、自分の小屋を使わず、わざわざ光子の家の舞台を使い、光子に稽古風景を見せたのである。

 嵐璃珏は、まぎれもなくくぐつの仲間であった。当時、くぐつの芸も伝承者が少なくなり、危機を感じた彼らは、必死で伝承者を探していたに違いない。 そして、才能と経済的背景を持つ一人の少女に白羽の矢を立て、彼らの持てる芸のすべてをこの少女に伝えたのであった。

 菊邑検校とケイは、断続的に九州より神戸へ来て、山十に逗留し、舞を教えた。その伝承期間は、昭和六年から、太平洋戦争の激しくなった昭和十八年までである。 最後の二〜三年は、九州へ帰る切符がとれず、二人は一年のほとんどを神戸の山十で過ごした。

 この十二年問に、菊邑検校とケイを中心に、〝太宰府よりのおん使者〟筑紫斉太郎(つくしときたろう)や、出雲、伊勢、熊野、京都、近江、尾張、越、そして関東地方の各地から、 検校の召しに応じて、それぞれ伝承している舞をもって多くのくぐつたちがやって来ては光子に教えこんだ。

 現在、西山村光寿斉氏が伝承している舞は、曲数でいえば二百数十曲であるが、一つの曲でも、筑紫、畿内、東では振りが全く違うものがいくつもあるので、 舞の数ではおよそ千番に及ぶと考えられる。その種類は、大きく神舞(かんまい)・巫女舞(きねまい)といった神に捧げる神前舞踊と、 くぐつ舞という祭礼の時に人々に見せる舞とに分けられる。

 菊邑検校とケイ、筑紫斉太郎、そして各地より神戸に来たくぐつたちは、山本十三のこの芸能に対するおおらかな理解と支援のもと、 また、光子の祖母で女医であったはる女の高い見識と母しなの細やかな心遣いなどにささえられて、 彼ら一族の後継者と選んだこの一人の少女に、持てる芸のすべてを注ぎこんだのであった。