筑紫舞聞書(六)
磯の神のこと
ある時、筑紫からやって来た人がいた。検校に挨拶をして四方山の話になった時、その人が、
「私達の先祖はあらかびさんです。」
と誇らしげに言った。そして、「あらかびさんが、筑紫の磯の神を大和のにお移ししたのです。」
というようなことを話した。光子は側で聞いていた。ちょうど、家の女中が、お茶を持って来て、それをちらっと聞いて、後で、光子を呼んで、
「ちょっと、とうはん、あの人、あらかびの子孫やいうてましたけど、の子孫やて、きたない!あんなん信じたらあきまへんで!」
と言った。側で、母が、
「そやかて、最近、かびからえらい薬が出来たということらしい、かびかて役にたつのもあるいうことやし……。」
と言った。当時、ペニシリンが発明されたことを母は言っているらしい。
とにかく、無知な女中によって、あらかびはかびの一種にされてしまったのであるが、そんなやりとりがあったので、光子はその時のことを鮮明に覚えていた。
この時習った舞は、「若菜」(肥後系)と「夏の曲」である。
「若菜」(肥後系)は、の舞で、である。巫子二人が、神葉を二枚摘み、この二枚のみの具合で吉凶を占う。この舞は、最初、筑紫の磯の神を大和にお移しする時、どこに祀ったらよいかを占ったところ、摘んだ神葉に虫喰みで、「」と出たという起源伝承を持つ。またその後、道鏡の事件で、和気清麻呂が宇佐で神託を聞く時、この舞を舞うと凶と出た。そして清麻呂の姉が石上で舞ったがこの時も凶と出たと伝えている。
こうした舞に用いるのは、すべての葉である。梛の葉は、筑紫と大和に群生している。石上は、日本中で一番良い土地である。以上のようなことをその人は語った。
「夏の曲」は、筑紫舞では「いの舞」という。筑紫の磯の神を大和の石上にお移しする舞で、
「私達もお供をしてゆきます。いつもあなたのお側にいますから、私達の不事災難を祓ってお守り下さい。」
という心で舞えと光子に教えたそうである。
また、次のような話も光子は聞いた。
「あらかびさんが、磯の神を筑紫から大和にお移しする時、船出をしたら、海が荒れた。周防灘の辺りで船の舳先が自然と陸の方へ向いたので、そこへ上陸した。そこは出雲の神と吉備の神が出迎えておられた。二人の神が両側から守って大和へ行かれた。
その間、行く先々がずーっとだった。
大和の石上にお移しして、三人がそこに居ついた。」
これは、まぎれもなく「筑紫物部」の伝承であると考えられる。あらかびといえば、かのが思いうかぶが、光子は、「物部」という名は聞かなかった。
その頃、光子の家は、大和の天理教に酒を納めていた。磯の神の話も石上の話も知らない父だったが、娘を神社で舞わすことにかけていた。天理に酒を納めに行って、石上神宮のことを知り、帰って来て、検校に、
「神社いう、立派な神社がおますけど、舞を奉納したらどうでっしゃろ。」
と言うと、検校は、
「さまですね。まだまだ、(とうさんには)資格が足りません。」
と言ったという。
平成三年、九月八日、西山村光寿斉として光子は、石上神宮にこの舞を奉納した。六十年間、この神に捧げるために持っていた舞であった。この舞の最後の歌詞は、
「夏と秋と行き交ふ空の通ひ路は
涼しき風や吹くらむ」
であるが、まさしく時も、九月八日、「夏と秋との行き交う」時、この歌のところで、ご神木の神杉の辺りから一陣の涼風が拝殿に吹き込んだ。大神も御照覧あったと私は感じたことであった。
大和ののこと
石上神宮の奉納を終え、その夜は天理に泊まった。翌日、私は、光寿斉氏を「大和の地主の神様に御挨拶しておきましょう。」といって大和神社に案内した。
私には、ひそかな目論みがあった。石上の伝承を持つくぐつ族であれば、大倭の神の伝承も持っているかも知れない。私の心に、日本書紀崇神天皇条の大和大国魂神奉斎の一条がひっかかっていた。
大和神社の境内で、私は、光寿斉氏に、の話をした。
果たして、私の話をさえぎるかのように、光寿斉氏の口をついて出たのは、次のような伝承であった。この話をしたのは、石上の舞を教えに来た人であったという。
「石上さまからちょっと離れた所に大和のが祀られています。
時のであるすめらぎ(崇神天皇とは言わなかったが)が、ここに都を移したかったのですが、遂に果たせずに亡くなってしまいました。
その土地は、地神の力が強すぎて、よくも悪しくも殺してしまう土地で、また、攻められやすく、守りにくい土地でした。そのすめらぎは、そんなことをお気になさらない方でしたが、都にできなかったのです。
神に仕える女が、その神聖な石を心臓の下に抱いて、そのすめらぎの都に移そうとしましたが、その女は腹がへこんで体がしなえてしまいました。そこで、その石はもとの所へもどしたということです。」
以上のような話だった。
大和神社を出て、崇神天皇陵に参拝した。御陵の側に大きな蛇がいた。光寿斉氏が、
「くぐつの人が、『すめらぎの陵は蛇がお守りしています。』というてはったけど、ほんまやなあ…」
と、しみじみ言われたのが印象的だった。
検校もくぐつ達も、天皇のことは「すめらぎ」と言い、また「——天皇」と言わず、「——天皇と呼ばれたすめらぎの御代」というように言い慣らわしていたという。
この話は、書紀に大和大国魂の神を奉斎したが、神霊の強さに「髪落ちみて、祭りあへざりき」という一条と類型の伝承と考えられる。
(鐘が岬)のこと
光子の友達に花柳流の踊りを習っている子がいて、その子の「娘道成寺」を見て光子が、
「いいわあ、あんなん、したいわあ。」
と言っているのを聞いて、検校が、
「それなら、教えてあげましょう。」
と言って、教えてくれた舞である。しかし、それは、歌詞は、例の「鐘にうらみは…」で同じであるが、光子の見た「娘道成寺」とは全く違っていた。光子が、
「こんなん、違うわ。」
と言うと、検校は、
「これが、もとです。」
と言ったという。
検校が語ったこの舞にまつわる伝承は次のようなものであった。
「筑紫国鐘が岬に釣り鐘が船で運ばれてきた。陸に上げようとしたが、海が荒れてどうしようもない。一人の里の娘が海の神の怒りを鎮めるために人柱に立てられることになった。娘は海に沈んだ。鐘は無事上げられたが、娘の母親は狂って鐘を恨んで舞う。そこへ娘の幻があらわれて、ありし日の姿で舞う。
『鐘に恨みは』の恨みとは、娘を殺された母親の恨みである。」
父十三が、この舞を見て、
「鐘供養でっか?」
と聞くと、検校は、
「鐘祓いです。何で鐘を供養しなければならないのですか。鐘はかたきですよ。『がかたき』と言いますでしょ。もともとは『鐘がかたき』です。言葉というものは、代々変わるものです。鐘は権力に対する抵抗です。」
と言ったという。更にこの時、検校は、
「世阿弥といえども、九州の話をもとに沢山物語を書いています。世阿弥は、いつの程かはわかりませんが、久留米のいぶせき小屋の生まれ、三才で熊野へ行き、そこで成長しました。」
と語ったという。
この舞で、ありし日の娘の亡霊が出て舞う時、母親は舞台の上手奥に坐って、手をすり合わせて娘を見守る所作がある。これを光寿斉氏は、何を意味するのかわからなかったが、光子が西山村光寿斉としてこの舞をはじめて上演した時、その夜の夢に検校があらわれ、
「あれは、香を練っているのです。」
と教えたそうである。後にビデオを見ると、まさしくそれは「反魂香」の所作であった。
尾張ものの伝承
筑紫舞のうちの「尾張もの」の伝承は、平成四年五月三十日、愛知県名古屋市千種区鎮座の上野天満宮社務所で第一回の稽古がはじまった。
年来の友人である三輪隆裕氏(清洲日吉神社宮司)と半田茂氏(上野天満宮祢宜)に伝承を呼びかけたところ、心よく応じてくれ、第一回の稽古の日は、正式参拝の後、社務所において、半田寛宮司、奥様をはじめ、半田家の方々のあたたかいおもてなしを受けた。また、三輪、半田両氏の友人も二十人程集まられ、光寿斉氏と私の話を聞く機会を催けて下さった。
こうして伝承がはじまり、稽古に立ち会って実感したことであるが、「尾張もの」の特長は、ゆったりとした舞いぶりであるということであった。
尾張から教えに来た人も、
「平野を思い描いて下さい。濃尾平野は豊かです。出来高では日本一です。この土地は、神から与えられた土地、豊かな土地です。だから、必死で神に祈ることはない、ただ神に感謝すればよいのです。」
と、誇らしげに語ったという。まことに、その通りの雄大な振りである。
上野天満宮での第一回の稽古を終え、六月一日、三輪隆裕氏のお招きで、三輪氏が宮司をつとめる、清洲市の日吉神社に参拝した。
本殿の前に四体の石の猿があった。それを見て光寿斉氏が、尾張から来た人が語った話を思い出された。それは、豊臣秀吉の出生にまつわる次のような話であった。
「秀吉は、その母が山王の神に祈って生まれた申し子で、神から『日吉丸』と名付けよというお告げがあった。
信長もそれを知っていて『猿』と呼んだ。」
これを聞いていた三輪氏は驚いて、
「その通りなんです。ここが、その日吉山王神社です。秀吉公の母上が奉納した土塀が残っています。安産石というのもあります。」
と言って、案内して下さった。
その後、社務所に行くと、もっと驚くべきことが待っていた。
社務所には、戦前から現在までの氏子総代の写真が掲げてあった。何げなく見ていた光寿斉氏は、その中の一人の写真の前で動かなくなった。
「この人や!この人が、尾張から三人連れて挨拶に来た人やわ!」
一瞬、何のことかと三輪氏もポカンとしていたが、
「えーっ!ほんとうですか!実は、この方が、その秀吉出生の伝承を文書から発見したんです。この人なら、その話をしても当然です。」
と、興奮した様子で話した。
その人は、河邑泰朗氏。この地方の豪農で、戦前の日吉神社の責任役員であり、清洲町町長もした人であるという。立派な顔だちである。
尾張ものを教えに来たのは六人であるが、まず最初にこの河邑氏が三人連れて挨拶に来た。河邑氏が大変りりしい顔だちであったので、山十の女中達が大さわぎをしていたという。河邑氏は、一泊しただけで、三人を残して、先に帰ってしまったという。
この三人が「の舞」を教えた。これを、六十年後に、その神社の宮司である三輪氏が伝承することになったということは、私には偶然とはどうしても思えない。
日吉神社の本殿前にある四体の石猿についても、その尾張から来た人が話していた。
「この四つの猿は、『見ざる、言わざる、聞かざる』と、もう一匹は、『お耳役』といって、『聞きとどけ役、見とどけ役』の猿です。
昔、この神社には、『吐き出し参り』という風習がありました。自分の心を神に吐き出すのですが、それを、四つの猿が守っている。『見ざる』『言わざる』『聞かざる』で、その吐き出したことは、絶対に秘密にする。そうしてそれが、絶対に秘されているどうかを見とどける役としてもう一匹の猿がいるのです。
これは一種の懺悔のようなものですが、心を浄化させるために、安心して吐き出せる所が必要だったんですよ。
昔々、戦争があった頃、落ちのびて来た一人の兵士が、このお日吉さんで、神のお供えものを食べ、お賽銭を盗みました。神さんや、四匹の猿はもちろん、宮守も一部始終見ていましたが、見ざる、言わざる、聞かざるで、誰にも言いませんでした。
何年かたって、その兵士は、をとり、手柄を立て高い身分にとりたてられた時、その時のことを思い出し、お日吉さんに沢山のお礼をしておかえしをしたということです。
お日吉さんには、皆が吐き出し参りをしました。普段人に言えないようなことを吐き出しに来たのです。吐き出しても、四匹の猿が、その人の秘密は守ってくれます。
境内に敷きつめられている小石に向かって吐き出すのです。これを『聞き石』と言います。その石は、いろんな人の吐き出しを聞いているうちに色が変わってきます。それで、近くの川に運んでつけておくのです。五日から十日位つけて置くと、またもとの色になるので、境内に運んで来て置きます。」
このような話であった。
尾張には、日本で唯一人の検校、土居崎正富氏がおられた。光寿斉氏とは二十年来の親交があり、尾張系の貴重な古曲の伝承者であった。そして、うかがえば、上野天満宮の半田寛宮司の父君義正氏と土居崎検校は、ともに佐藤検校に学ばれた同門であったという。そして、その佐藤検校は、光寿斉氏の師であった菊邑検校と親交が篤かった。不思議な縁の糸を感ぜざるを得ない。
現在では、日吉神社で神事芸能研究会の名古屋教室が毎月開かれ、会員達が伝承にいそしんでいる。
「の舞」も、三輪隆裕宮司の子息である三輪禰宜が伝承することとなった。
また、先述した「吐き出し参り」の風習は、三輪宮司が「はきだし祭り」として現代に甦らせ、日吉神社の年々の例祭としてとり行われている。
「はきだし祭り」では、三輪宮司によりくぐつの事跡をしのぶ祝詞が奏上され、続いて本殿で「古山王」の舞が奉納される。その後参列者はを受け取り、おのおの「吐き出し」たいことをそこに託し、それを境内中央の石にぶつけて割るのである。
「れの多い現代だからこそ、このような祭りが必要」との三輪宮司の志は、かつて世の人々の穢れを我が身に受け、舞によってこれを祓い、神に託すことをとして生きたくぐつの一族の精神を、今の世に受け継ぐものと言えよう。
かくして「古山王」の舞が、それを伝えに神戸までやってきた人々のゆかりの神社で恒例として舞われるようになったことも、感慨深いことである。
今回取り上げたように、筑紫舞の曲目には、尾張ものの他にも筑紫もの、畿内もの、出雲もの、越もの、東ものといった各地域ゆかりのもの、さらには大和や近江、明石といった特定の土地にゆかりのものもある。一つでも多くの曲が、再びそれぞれの地で舞われる日が来ることを念願してやまない。